タイトル: | 坪野平太郎 |
掲載日時: | %2009年%06月%11日(%PM) %23時%Jun分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=396 |
●坪野平太郎(つぼの・へいたろう)
1859(安政6)〜1925(大正14)
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「英語教育で若者に夢を」
1886(明治19)年東京帝国大学法科卒業後、病気療養のため北条に滞在した際に、英語学校を開設して英語とテニスを教えたという。この人物こそ房州が避暑避寒と海水浴場に最適地であることを全国に紹介したといわれる。その後、外交官や大臣秘書、銀行取締役だけでなく、神戸市長や東京高等商業学校(一橋大学)校長を歴任し、政治や教育の面で大きな功績を残している。
1914(大正4)年に職を退いた後、また北条町に居住し、英語学校を再開している。1919(大正8)年には、東京小石川に「安房育英会」をつくり、安房出身の在京者を援助した。また万里小路とともに社会教育団体「安房弘道会」顧問となっている。震災後は、北条町から故郷の神戸市に転居し、65歳で死去した。
南陽(なんよう)の号を名乗り、英語学校の門下生には元館山市長の田村利男や半沢良一のほか、吉田十郎(鏡軒店主・元二中PTA会長)らがいる。有為の人材育成に貢献した師を偲んで「南陽会」が組織され、顕彰碑が慈恩院に建立されている。また、善行者や学術優秀な若者らを支援する「南陽賞」を設けたことで、後に安房高には南陽文庫が創設され、旧安房南高では「南陽賞」が復活した。館山六軒町の諏訪神社境内には、坪野による文撰の碑が建立されている。
「土地に惚れ 女房に惚れて その上に 仕事に惚れる ひとは仕合」 という名言をのこした。
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...◎あわ・がいど③『海とともに生きるまち』より抜粋...