タイトル: | 地域にのこる先人たちの遺産から国際交流を育むたてやま〜日韓子ども交流の実践 |
掲載日時: | %2009年%03月%10日(%PM) %23時%Mar分 |
アドレス: | http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=291 |
千葉県歴史教育研究習志野八千代集会分科会⑦国際交流(2006年2月25・26日)
館山市大網の大巖院(浄土宗)に建つ千葉県指定有形文化財「四面石塔附石製水向」(以下「四面石塔」と略)は、四面に梵字(サンスクリット)、篆字、和風漢字、ハングルによってそれぞれ「南無阿弥陀仏」と刻字された、日本でも大変めずらしい名号石塔である。これについて『千葉県の文化財』では、「元和10(1624)年に雄譽霊巖上人が建立した玄武岩製の四角柱の名号石塔です。(中略)このなかでハングルは、李氏朝鮮第4代王世宗が1446年に公布した『訓民正音』という文字で、非常に短期間で消滅したため、本家の朝鮮でも近年までよくわからなかったものです」と記されているだけである。
この石塔は史料もなく不明なことが多いが、私自身が調査研究するなかで、日韓の国際交流のあり方を考えるにふさわしい内容をもった地域教材と判断し、「現代社会における人間と文化〜文化交流と国際理解」の単元において、19時間の授業を実践した。(千葉歴教協2002年会誌第33号報告 ) 地域にある文化財を通じて、先人たちの文化交流や平和の思いを身近なものとして捉え、地域から国際交流を考える視点を養うことを主眼とした調べ学習に、生徒たちは主体性をもって臨み、小論文を作成した。この授業実践は韓国でも発表の機会を得た。
2002年はサッカー・ワールドカップの日韓共同開催で話題を呼び、現在の韓流ブームの契機となった「日韓国民交流年」であった。「四面石塔」の調査研究を通じて、安房地域と東アジア世界、なかでも韓国・朝鮮の人々との歴史的な関係や文化交流を学びながら、未来に向けた文化交流の契機になることを願って、同年3月23・24日、「日韓歴史交流シンポジウム〜江戸時代『ハングル四面石塔のなぞ』(日韓文化交流基金助成事業)を開催し、両国の大学教授による講演や韓国舞踊公演をおこなった。さらに同年8月20〜22日、「第10回日韓歴史教育交流会館山シンポジウム」を開催し、文化交流や高校生交流、日韓関係史跡見学などをおこなった。ほとんどの市民に知られていなかった「四面石塔」が主役となって、新しい文化交流の地域づくりとなっていった。
2005年は、両国において「日韓友情年」と位置づけられ、さまざまな交流事業が企画されていた。その流れのなかで、私たちNPO(特定非営利活動)法人は日韓教育実践研究会顧問石渡延男氏より、韓国浦項製鉄西初等学校との児童交流の打診をうけた。当初、大資本の財団学校である先方は、当初日本の私立学校との姉妹校を希望していたが、石渡氏の推薦により、地域づくりに日韓交流を位置づけている当NPOへ白羽の矢が立った。受け入れ態勢を整えるべく、NPOでは千葉韓国教育院の金相敏院長の協力を得て、市民向けに呼びかけ「もっと知りたい韓国」講座を前年秋より開催した。韓流ドラマのファンである主婦層を中心に約30名の市民が集い、韓国の言葉や歴史、文化(韓国料理)を学び、韓国への理解を育んでいった。
同年1月に下見で来日した浦項製鉄西初等学校の金順福先生は、「四面石塔」はじめ地域に残る戦争遺跡などの歴史・文化や自然、あるいは私たちNPOとのふれあいを通じて、「交流相手として館山は最適であると学校理事に報告し、ぜひ交流を実現したい」と積極的に進めていく言葉を残して帰国の途についた。
その後、両国間で竹島(独島)領土問題が勃発し、全国でも企画されていた交流事業の中止や延期が相次ぎ、当地の本事業も実現が困難かと思われる時期もあったが、6月になってようやく先方から「実施確定」の連絡を受けた。のちに「学校内には日本との交流を快く思わない教師たちもいるが、こういう時期だからこそ、両国の相互理解を深めるためにも、子どもたちに肌で実感する交流体験を館山で味合わせたかった」と、金先生が語っている。
準備期間は1ヶ月と迫るなか、韓国民団安房支部の協力のもと、NPOメンバーと「もっと知りたい韓国」講座受講生を中心として実行委員会を組織し、ホストファミリー10組による民泊の受け入れと参加児童の公募、体験メニューの実施にあたっては南総里見手作り甲冑愛好会・NPOたてやま海辺の鑑定団・白百合学園黒潮太鼓合奏団・館山市ユネスコ協会・館山市国際交流協会の協力を得て、受け入れ準備態勢を整えた。そして、待望の7月26〜29日、韓国児童20名と引率教師4名、通訳2名が来日した。
近年、地域の歴史を中央の支配権力からの視点、つまり日本列島規模の歴史が地域を動かしていたという視点ではなく、地域のなかでの出来事や文化があり、その地域ごとの独特な個別の世界が中央を揺り動かすという形で中央の歴史が動いていたと捉える視点が歴史学分野の主流になりつつある。はじめに日本列島の全体像があるのではなく、地域像から逆に全体像というものを見ていく視点が求められている。地域像を明らかにしていくうえで、地域にある歴史・文化・文化財などが、あらためて地域史の研究対象として位置づけられてきた。
古代より海路の拠点だった安房の地は、海洋民らが交流・共生し、異なる文化や価値観を学び合いながら、新しい文化を生み出してきたと思われる。太平洋に突き出した房総半島は、地震多発地帯であり、災害に苦しんできた地域である。一方、様々な支配権力の拠点であったことは戦乱の地にもなり、近現代では日清・日露戦争からアジア太平洋戦争にかけて、軍事戦略上で重要な役割を担ってきたことが、いまも数多く点在している戦争遺跡によって知ることができる。ただ、忘れてならないのが、この地の先人たちは地域コミュニティの力によって、こうした災害や戦乱を乗り越えてきたということである。
今も地域に残る文化財や戦争遺跡に光を当て、先人たちの生き方や知恵を掘り起こしていくことは、地域の人びとに誇りや喜びを蘇らせてくれただけではなく、他地域から訪れる人びとにも歴史・文化を学ぶ楽しさが広がり、新しい形の「交流文化」を生み出す。このような視点での地域づくりを通じて、豊かな地域コミュニティ再生を願って、私たちはNPOを設立し、ここ2年活動してきた。
ところで他地域から訪れる人びとが安房の歴史・文化から「平和・交流・共生」を学ぶために、富山県作成の「環日本海諸国図」を使用する事前学習をおこなう。これは日本列島とアジアの地図を逆さまに眺めることで、地域から世界をみる常識的な視点を問い直す機会にしている。たとえば小学生たちにこの学習をすると、次のような感想がでてくる。
・ 日本海は湖のように見える。
・ 日本とアジア大陸はひとつながりに見える。
・ いつもより、アジアの国々が近く見える。
・ アジアの国々から見ると、日本は邪魔な位置にあると思う。
・ 日本列島は「へ」の字型に太平洋に突き出ていて、その頂点に房総半島(館山)がある。
このような地理的条件を踏まえて、以下のような歴史・自然環境の総合学習を実施することで、潮流と海路の関係、支配権力や軍事拠点との関係などを学び、先人たちの「平和・交流・共生」の精神が浮き彫りになると思っている。
[A.清国船元順号遭難救助の碑]
1779(安永8)年11月11日、唐船と呼ばれる清国(現中国)の貿易船「元順号」が長崎に向かう途中、大嵐に遭遇し5ヶ月漂流の後、翌年4月29日に安房の千倉海岸沖で座礁した。千倉の漁民は暴風雨の中、乗組員78名全員を救助し、2ヶ月間遭難者を手厚く世話をして、全員を故郷に帰還させたという。これを後世に伝えるとともに、日中友好のシンボルとして、1980年7月に清国船元順号遭難救助記念碑が建立されている。また、絵画に優れていた副船主の方西園が綴った絵日記『漂客奇賞図』に描かれた富士山の図は珍重された。長崎の唐人屋敷に足止めされる中国商人は、富士山を実見するチャンスはなく、長崎への移送中、海上から富士山を眺めた方西園は「目睹して実に大観なり」と感激して絵筆を走らせたという逸話もある。
[B.沖ノ島のビーチコーミングとゴミ拾い]
県内有数の海苔の産地であった宮城の浜は、鏡が浦と呼ばれる静かな湾内にぽっかり浮かぶ2つの小島(沖ノ島・高ノ島)を望む風光明媚な土地地であった。1923(大正12)年9月1日の関東大震災により、90%以上壊滅した館山は、大規模な隆起が起き高の島まで歩いて渡れる干潟となった。その7年後の1930(昭和5)年に、この遠浅の海を埋め立て、日本で5番目の館山海軍航空隊をつくった。高ノ島は基地の一部となり、沖ノ島は少し離れた位置に島として残った。
戦後、潮流の影響により沖ノ島まで砂州がつながり、歩いて渡れる無人島として市民の憩いの場となっている。沖ノ島周辺には現在もサンゴや豊かな生物が生息し、浜には多種多様な貝殻や土器などが漂着し、ビーチコーミングと呼ばれる自然観察学習がさかんに行なわれている。このとき、ゴミに注目すると、ハングルや漢字などアジア諸国の文字が印刷されたパッケージが多く漂着していることに気づく。
[C.済州島からやってきた韓国海女の墓地]
鴨川市江見真門の長興院には、1970年代に建てられたと思われる多くの韓国人墓地がある。碑面には、「韓国済州島出身」「和田町在住」などと刻まれている。当地へ移住してきたアワビ漁の海女たちと元締めの墓であるらしい。まだ詳細な研究調査は行なっていないが、生活も困難で墓が認められなかった時代を経て、韓国人たちの墓建立を受け入れた寺院の存在は注目される。ただ墓建立の経緯は不明で、家族の系譜を大切にする人びとによって墓参はおこなわれている。
[D.太平洋をわたった房総のアワビ漁師たち]
古代より素潜りのアワビ漁がさかんだった房総では、明治期、器械式潜水の導入によりアワビが乱獲され、器械式潜水によるアワビ漁は禁止された。時を同じくして、アメリカ・カリフォルニア州のモントレー湾周辺でアワビ漁の可能性が報告され、安房・白浜から小谷源之助が渡米した。寒流のカリフォルニア海流では素潜り漁ができなかったが、器械式潜水を導入することにより大量のアワビが捕獲できるようになり、源之助の弟小谷仲治郎は、兄と連絡をとって多くの潜水夫を渡米させた。アワビステーキやアワビ缶詰を開発し、アメリカの食文化に革命を起こし、アワビビジネスで大成功した源之助たちは豊かな日系移民村となった。日本人初のハリウッド俳優早川雪洲は千倉出身であり、兄が潜水夫であったという。また、彼らのゲストハウスには尾崎行雄や竹久夢二らが滞在し、日米親善のかけ橋となって重要な役割を担っていたと思われる。しかし開戦と同時に、太平洋沿岸の日系人たちは日系人強制収容所に入れられ、アワビ漁の幕は閉じられた。
[E.館山のユネスコ活動と平和祈願の綴錦織]
1947年の仙台・京都・奈良・神戸に次いで、翌1948年には館山ユネスコ協力会が県内で初めて設立された。日本ユネスコが加盟したのは1951年である。館山ユネスコ保育園は世界で唯一〝ユネスコ〟を冠した保育園である。
またNYの国連本部には、世界大戦の全戦没者の冥福と平和への祈りをこめて1951年に贈呈された 『綴錦織曼荼羅中尊阿弥陀如来像』が掲げられているが、製作者は館山市の無形文化財である遠藤虚籟と和田秋野であり、虚籟は1949年に山形鶴岡ユネスコ協力会の初代理事長にも就任している。先人たちのユネスコ活動も、館山を定点として広がっていたのである。
2005年9月3日、アメリカ・カリフォルニア州モントレー湾周辺域から40名の市民が来日し、カブリオ大学名誉教授サンディ・ライドン氏の講演と堂本暁子千葉県知事の英語対談、館山発祥の合唱組曲『ウミホタル〜コスモブルーは平和の色』の初演コンサートを館山の南総文化ホールで開催した。
事の発端は、日系移民史研究者であるライドン氏が、当NPOの発行する『あわ・がいど①戦争遺跡』を入手したことから始まる。この冊子の表紙にある米占領軍館山上陸の写真とのキャプションを見て、ライドン氏は驚いたという。曰く、「アメリカで戦争の歴史といえば、1945年9月3日のミズーリ号敗戦調印式で終わっている。翌日に米占領軍が館山に上陸したということは、世界史的出来事である。60年目のこの日に館山で日米平和親善交流を行ないたい」とのことであった。館山において、9月3日は戦後日本のスタートであり、平和記念日と呼ぶにふさわしい。当NPOはこの申し出に賛同し、平和式典を企画した。
館山湾に生息するウミホタルは現在観光のシンボルになっているが、戦時中は軍事利用目的で子どもたちが採取していたという逸話があり、2004年に合唱組曲『ウミホタル〜コスモブルーは平和の色』が誕生している。かねてより発祥の地館山で初演を行ないたいという希望もあったので、アメリカ市民の歓迎演奏として、初演コンサートを同時開催となった。韓国児童同様、アメリカ市民も来日前から『レッツゴー沖ノ島』を日本語で練習しており、当日は1,000名の日米大合唱となった。
「多くの人は、自分の暮らす足もとの地域についてほとんど知らないが、南房総とモントレーはとても共通点が多い。今回、南房総の自然や歴史・文化、市民同士の交流を通じて、自分のまちモントレーを深く知ることになるだろう。それは、ディズニーランドや東京あるいは京都・奈良だけでは発見することができない。同様に、南房総の市民にとっても、モントレーを知ることによって新しい気づきが生まれるだろう」 というライドン氏の言葉どおり、8日間にわたる南房総滞在の交流を有意義に過ごした後、再来訪を誓って帰途についた。
本事業に際し、カリフォルニア州務長官とサンタクルス市長からは、「南房総・モントレーの平和宣言」が贈呈された。NPOではこれを記念し、資料冊子『太平洋にかかる橋〜アワビがむすぶ南房総・モントレー民間交流史』を和英表示で発行した。
なお2006年4月、モントレーにおいて同内容のシンポジウムが計画されている。また、当時製作された日米両国旗のデザインされた万祝を米国に寄贈すべく、NPOでは所有者と交渉中である。また、合唱の部で交流に参加した小学生は、館山で開催した千葉県ユネスコ大会に際して次のような作文を記している。
『作文』
日韓国交正常化40周年を迎える今年、日韓両国では「日韓友情年2005」として、両国の文化・経済・社会などにおける様々な交流事業を展開しています。記念すべきこの年に、韓国浦項(ポハン)市・浦項製鉄西初等学校の子どもたちを館山市へ招き、館山市の自然や歴史文化をはじめ、互いの音楽の交流を通じて、日韓両国の子どもたちの交流・友情の輪を育む「たてやま日韓子ども交流事業」を開催します。≪主催:NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム≫
交流先:韓国・浦項製鉄西初等学校(4〜5年生:20名、引率教諭:4名、通訳2名)協力:千葉韓国教育院/韓国民団安房支部/館山市国際交流協会/館山市ユネスコ協会/館山白百合学園合奏団/南総里見手作り甲冑愛好会/NPOミューズ/安房母親大会実行委員会/NPOたてやま海辺の鑑定団 ほか
後援:千葉県/千葉県教育委員会/ちば国際コンベンションビューロー
7月26日(火)
夕方:館山到着・歓迎レセプション・ウエルカムパーティ/全員:夕日海岸ホテル泊
7月27日(水)午前/午後
ふるさと歴史探検(1)
・船形地区祭礼見学・房州うちわ作り体験
・手作り甲冑・茶道体験
ふるさと歴史探検(2)
・戦跡めぐり(赤山地下壕跡他)・四面石塔見学
おみやげ屋 → ホームスティ(韓国児童)
※ 韓国児童のみ参加予定
引率教師:夕日海岸ホテル泊
7月28日(木)午前/午後
ふるさと自然探検
・沖ノ島無人島探検(ビーチコーミング他)
ふるさと自然探検
・クラフト(宝貝ストラップ)
ふるさと音楽交流・ティーパーティー
・白百合合奏団&浦項製鉄西初等学校
おみやげ屋 → ホームスティ(韓国児童)
雨天:安房博物館/白百合学園ホール
引率教師:夕日海岸ホテル泊
7月28日(木)朝 東京見学出発見送り 全員:東京泊
【募集!】
説明会 7月17日(土)午前10時 たてやま夕日海岸ホテル
◇ 参加児童=おもに館山市内在住の小学校4・5・6年生 20名
◇ ホームスティ家庭=おもに参加児童家庭 韓国児童を2人ずつ預かり、送迎可能な家庭。
※ お子さんがいない家庭でも、場合によっては可
館山市/館山市教育委員会/NPO全国生涯学習まちづくり協会 ほか
韓国の友達と一緒に
館山を探検してみませんか?
韓国(かんこく)の小学生20人が、館山にやってきます。韓国の友だちと一緒(いっしょ)に、館山の自然や歴史(れきし)を探検(たんけん)してみませんか? 韓国の友達と館山を探検する「ふるさと歴史・自然探検」の参加者を募集(ぼしゅう)します。 また、韓国の友達を家に泊めてくれる「ホストファミリー」も募集します。
主催:NPO法人 南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム
● どんな友達がくるの?
○韓国の浦項(ポハン)製鉄西初等学校(小学校)の4年生と5年生、20人が来るよ!
● 探検では、どんなことをするの?
○沖ノ島探検や戦争遺跡(せんそういせき)、韓国との交流を伝える「四面石塔(しめんせきとう)」など、館山の自然や歴史を韓国の友達と一緒に探検します。韓国の友達の演奏会もあります。マイクロバスで市内をめぐります。館山市内の小学校4年生〜6年生、20人を募集(ぼしゅう)します。
● ホストファミリーってなあに?
○外国から来た人たちを自分の家に泊(と)めて、歓迎(かんげい)してくれる家族のことです。探検への参加とホストファミリーの両方を受けてもらってもいいです。そっちの方が楽しいかな。一軒の家庭で2人の友達を泊めてください。10組の家族を募集(ぼしゅう)します。
● いつ、韓国の友達が来るの?
○韓国の友達は、7月26日(火)〜29日(金)までの2泊3日、館山に来ます。27日(水)にふるさと歴史探検、28日(木)に沖ノ島の自然探検と音楽会があります。
くわしい内容(ないよう)は、説明会でご案内します。
● 四面石塔ってなあに?
○館山の大巌院(だいがんいん)というお寺に、今から約400年前に建てられた石の塔(とう)。日本・中国・インド・韓国(朝鮮)の4つの国の文字で、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と彫られているよ。どうして、館山に外国の言葉の石塔があるのかな。