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タイトル:安房の海運業
掲載日時:%2009年%02月%19日(%AM) %11時%Feb分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=252

安房の海運業の歴史をみると、江戸期では帆走や櫓漕ぎによる押送船などによって、大都市江戸へ向けて鮮魚の輸送をおこなっていた。明治に入って東京方面へ大量で迅速な海上輸送をすすめるために、正木貞蔵らによって汽船利用が提唱され具体化されていった。その経緯のなかで、1878(明治11)年、東京の魚河岸問屋や石川島造船所工務部長の稲木嘉助らの支援によって、辰野安五郎は安全社を設立し、館山・東京間に汽船通快丸(約60㌧小型蒸気船)を就航させた。往路は運賃80銭の旅客をはじめ鮮魚や干漁、白土などを積み、復路は東京からの日用雑貨を輸送した。しかし、安全社の独占的な事業経営の弊害をみた正木貞蔵は、1880(明治13)年に自ら船形村に北条汽船を設立し、保全丸(200㌧)を運航させた。翌年には安房汽船会社と改称して房州丸はじめ汽船三隻を就航させ、安全社と運賃値下げ競争を繰り広げ、大幅な値下げを実現させた。だが、那古と東京霊岸島間の旅客運賃が一人10銭になり、結局大きな損失となって経営の破綻を招いたのである。1887(明治20)年に株主を集めて再建したものの、再び価格競争のなかで破綻していった。


1890(明治23)年、日本では最初の資本主義恐慌が発生し、株価が暴落した。この年には、渋沢栄一の指導によって正木貞蔵の安房汽船会社と内国通運とが合併し、東京湾汽船会社が設立された。そして東海丸(100㌧)が就航し、たとえば那古においても取扱所が設置され、那古桟橋が新設された。当時の那古桟橋は通称「蒸汽場」と呼ばれ、那古寺をめざしてやって来た参詣客だけでなく、安房の産業を代表する房州団扇製品をはじめ、加工品などの出荷場所として賑わっていた。『千葉県安房郡誌』によると、林産物の竹材に関する記載では、竹材の主産地が豊房・瀧田・北三原・曽呂・八束・大山・丸の各村とされ、年々搬出量が増えて竹製品としての移出額も少なくないという。なかでも団扇の骨が製作されているが、その生産地は主に那古・船形であり、1877(明治10)年に那古町の某企業から始まり、生産工場として主なものは、船形に団扇会社、那古町では岩城庄吉や森松太郎の工場があり、多くは婦女子の副業として製作し、製品は京浜市場や東北地方に搬出されていると記述されている。

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