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タイトル:保存運動のトピック
掲載日時:%2009年%02月%03日(%PM) %16時%Feb分
アドレス:http://bunka-isan.awa.jp/About/item.php?iid=108

★「稲村城跡の『国指定』へむけて」

〜2回の稲村城跡調査検討委員会の開催

(文責:愛沢伸雄 2008年度会報 第33号より)


2006年末12月13日に第1回目の、2007年3月16日には第2回目の「稲村城跡調査検討委員会」が開催されました。1996年4月に稲村城跡保存を呼びかけ、5月に「保存する会」を結成し今年で12年目となりますが、具体的な「国指定」にむけて調査検討の動きが本格的に始まりました。激動の毎日であった保存運動のスタート時を考えると、本当に隔世の感があります。


2007年度の総会では市教委担当の杉江氏より、国・県からの事業費補助を受けて2か年継続で学術調査事業を実施するとの話しがあり、10月に入って稲村城跡の保存活用を図る目的で実施する確認調査等のために「館山市稲村城跡調査検討委員会」設置の準備となりました。委員会は元文化庁文化財保護部記念物課主任文化財調査官であった河原純之氏を委員長に、私をはじめ滝川恒昭氏や天野努氏など7名が委員の委嘱を受けました。ここでは2年間にわたって、発掘調査等の方法や資料保存方法の検討など「国指定」申請にむけての報告書作成に関わっていくことになります。まず、平成18年度では測量調査の実施により、主に主郭部を対象に地形測量図を作成するとともに、平成19年度においては、発掘調査をおこなうことになっています。


これまで「保存する会」では、史跡化の目標として「『稲村城跡の史跡化』とは、具体的に『国指定史跡』とする。その際、『稲村城跡』のみならず里見氏ゆかりの城跡をセットで指定の対象として史跡化の運動をすすめる。」とし、「その候補は、当面は稲村城跡・白浜城跡・滝田城跡・宮本城跡・岡本城跡・館山城跡とするが、今後、研究者・専門家のアドバスを受けるとともに、中世城郭研究の進展を踏まえて、地域の文化財の見直しや掘り起こしをすすめながら、その候補地をさらに検討していく」としてきました。つまり、里見氏の城郭を群として、複数の城郭を「国指定」にすることを目指してきました。その点でも杉江氏が昨年の総会で「里見氏城郭を群」として取り上げていく可能性が高いとの報告がありましたが、県文化財課でも指定のあり方をその方向で取り組むとの見解が示されています。


今後、稲村城跡の「国指定」申請にむけて、まず地権者の皆さんの同意確認が一番重要ですし、その後の保存整備にむけての「構想」が求められてくると思います。いずれにしろ市当局においては、地域の方々とよく話し合っていただき、「国指定」にともなう不安を早急に解消するように努力するとともに、なかでも「稲村城跡国指定」が地域の生活や今後にどんな影響があるか、また地域振興ではどのよう方向なのかを具体的な施策をあげて、地域の方々に示していってほしいと願っています。

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●「稲村城が『国指定』にむけて動き出せるか!」

〜館山市教委が「稲村城跡」調査の結果を発表 「調査報告書」作成

(文責:愛沢伸雄 2008年度会報第35号より)


館山市教委は2006年度から2年間進めてきた稲村城跡の調査検討結果を『館山市稲村城跡調査報告書』(発行3月25日)として発表しました。


報告書では、稲村城跡の保存運動に関して「平成8年、市道8042号線の建設計画に伴う稲村城跡保存運動が展開され、『房総里見氏と稲村城跡をみつめるフィールドワークと講演のつどい』、展示会『わたしたちの稲村城跡大発見フェア』の開催、資料集『里見氏稲村城跡をみつめて』の刊行など、数々の市民活動が行われた。翌平成9年12月の館山市議会で、『稲村城跡保存に関する請願書』が採択され、その後、稲村城跡の主格部を通る館山市道8042号線の計画は変更された。・・・・・稲村城跡の保存運動の展開に伴い、里見氏への関心が高まり、文献史料を中心とする研究が急速に進展した」と記載しています。

また、発掘調査では、「これまで確認出来ていない居館跡やそれに付随する建物群など、日常的な生活の場所の検出の必要性が第一に指摘された。それを受けて、発掘調査を行ったA・B・C.3地点のほかに主格部周辺の丘陵下平坦地に8カ所程発掘調査候補地が選定された。しかし、結果としてそれらの場所については発掘調査することが出来なかった」と報告され、全体で11カ所の発掘調査を予定していたものの、中郭部の3カ所のみの発掘になり、「国指定史跡」にむけての発掘調査としては、大きな課題を残す結果となっています。


なお、発掘調査がおこなわれたA・B・C3地点の結果をみると、A地点では盛土でつくられた平坦面があり、その上から近世の陶磁器が出土したり、B地点が古墳時代中期の竪穴住居跡の上に盛土の整地面があり削平にされていたが、なかでもC地点では、縄文時代中期の土器を含んだ大量の土が造成に使われており、谷の斜面を埋めて城普請がされたり、削平された平場も造成していることがわかりました。つまり、中核部の造作規模やその内容が明らかになったのです。


報告書のまとめの部分で天野努氏は「城に関わる出土遺物が検出されず、稲村城の存続期間を遺物から確認することが出来なかった点は残念であった。しかし、一方、今回の調査区域で城に直接関わる出土遺物や遺構が検出されなかった点は、この中核部の平坦部(曲輪)が、ほとんど使用される間もなかったか、或いは、日常的な生活の場ではなかったことを示しているのではないかと理解される。そのことからすると、逆に、この城の構造や使用期間を考える上でそれなりの意味をもつものである。」としています。


この点で遠山成一氏が「稲村城は歴史的にみて、天文2〜3(1533〜34)におきた里見氏の天文の内乱時に里見氏の本城として登場し、それ以降は歴史の舞台から姿を消してしまう。・・・・・遺構の縄張の観点からみても、戦国後期までの使用は考えにくい・・・・・・上面自然地形を多く残すことから、完成された城郭とは言い難い。ある時点で造作が途絶した可能性も考えておきたい。それは天文の内乱と考えるのが自然ではないだろうか。」と記載しています。里見氏の歴史を考えるうえで天文の内乱は極めて重要です。今後とも稲村城との具体的な関わりで解明していってほしいものです。


天野氏は最後に館山市に対して「居館や居住域については、本城跡の保存・活用を図っていく上で、出来るだけ早く発掘調査を行って、その所在を明らかにしておくことが望まれる。」と提言しています。このことは、今後の館山市の「国指定」に向けての姿勢が問われることで、最後の稲村城跡調査検討委員会でも各委員から指摘・要望されたことで、私たち「保存する会」でも強く要望していきたいと思っています。

この『調査報告書』は館山市教育委員会生涯学習課のホームページでみることができます。

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