●奴隷貿易にみるアフリカ・アジア・新世界〜「黒い商品と白い商品」●
…アフリカ史「奴隷貿易」
*執筆=愛沢伸雄
*千葉県高等学校教育研究会歴史部会編『新しい世界史の授業』(山川出版 1992年)
*『足もとの地域から世界を見る〜授業づくりから地域づくりへ』掲載
■はじめに
今日のアフリカ世界における諸問題の根源は植民地支配の時代のみならず、16世紀以来の奴隷貿易の時代にあるといっても過言ではない。そのためにも奴隷貿易をアフリカの主体的な歴史や文化のなかで捉え、そしてアフリカ史に位置づけることが重要である。従来、ヨーロッパ「近代」とのつながりだけで奴隷貿易をみて、とくに奴隷の悲惨さのみを強調するきらいがあった。では、悲惨さや困難さを乗り越えていこうとするアフリカの民衆の立場に立つとき、この奴隷貿易はどのようにえがかれる必要があるだろうか。そのことを念頭に、本稿では3時間の奴隷貿易の授業を試みた。
■1.アフリカの農業社会
まず第1時間目の授業は、アフリカ農民たちのたゆまない努力によって安定した農業社会がつくられていたことから始める。また世界各地と結びついていたサハラ縦断貿易などもとりあげる。
アフリカは伝統的に自給経済であるが、10〜15五世紀になって各地に繁栄した交易は、農業生産の拡大をうながした。とくにキビや米の栽培を中心に、さまざまな農耕技術が展開された。農民たちはアフリカの農業のあり方をよく理解しながら、その土壌にふさわしい農法として焼畑農耕や浅耕を、さらには段々畑・輪作・緑肥・混合農業などの技術、そして鉄製の農具を普及させていった。とくに、塊茎植物の農業では手鍬耕作を行っていたので、のちにアフリカ人たちが奴隷として砂糖キビ栽培に投入される要因になった。
アフリカでは家族か共同体の一員であれば必要な土地が保証され、生活は安定していた。大多数の共同体では家庭用品、農具、武器などの必要品は自給自足していた。交易のための織物業も盛んで、ギニア海岸産の綿織物などは丈夫で人気があり、「モロッコ皮」という樹皮やヤシ繊維で仕上げた布もあった。
ところで西スーダン地方には、ガーナ・マリ・ソンガイなどの国家が興亡した。」この地方と地中海から大西洋にいたる地域とをネットワークしていたのが、サハラ縦断貿易である。この貿易ルートでは、「黄金」が主要商品として扱われていたので、のちにヨーロッパ人に注目された。またイスラムとの交易の中でアフリカ人「家内奴隷」が、商品として運ばれていたことを忘れてはならない。
■2. 砂糖プランテーションと労働奴隷制
アフリカとヨーロッパの動きから奴隷貿易のはじまりをみてみよう。ポルトガル・スペインはレコンキスタで常にイスラム世界と対峙していた。ポルトガルは1415年ジブラルタルの対岸セウタの占領以降、本格的にアフリカに進出する。
【教師(以下、Tとする) 】エンリケ航海王子はアフリカ西岸を船によって南下すれば、話に聞くサハラ縦断貿易の「黄金」と直接取引きができると考えた。ここが1470年代に「黄金」海岸と呼ばれるようになったが、こうなるとサハラ縦断貿易はどうなるか。
【生徒(以下、Sとする)】 船とラクダでは輸送量が違うし「黄金」はポルトガルに独占されてしまう。
【T】その通り、ポルトガルのやりたいほうだい。ローマ法王からアフリカ探検の独占的権利を得ただけではなく、海岸線にそって武力で西アフリカ地域間の交易ルートを破壊して、自ら仲介貿易のネットワークづくりをしていった。このネットワークを結局どこと結びつけたのかな。
【S】ヨーロッパ世界とですか。
【T】そうアフリカの地域間の交易をヨーロッパ・アフリカ貿易に換えていったことが、その後の奴隷貿易を容易にしていったのだ。
では、奴隷貿易と不可分な関係になっていった、砂糖プランテーションの成立をみてみよう。東南アジア原産の砂糖キビがインドからイスラム世界に入り、8世紀には地中海沿岸、とくにマグレブ地方・スペイン南部海岸に栽培された。この砂糖は古来、非常に高価なものであった。砂糖キビは労働集約的な作物であり、移植・栽培技術には気候的な条件のうえに、大量の水と労働力を必要とした。
15世紀に入りヨーロッパでは、砂糖についての知識が高まっていた。砂糖の需要がふえつつあるとき、アフリカに近いカナリア・アゾレス・ヴェルデ・サントーメなどの大西洋諸島で砂糖業は始まった。ヨーロッパ人の入植者は、手鍬耕作にすぐれていたアフリカ人の奴隷を使って、プランテーション経営による砂糖キビ栽培と製糖を進めた。このことはポルトガルにとっては民間資本による大西洋諸島の基地化にもなり大西洋の制海権、ひいてはアフリカ回りのアジア貿易をにぎることを可能にした。
ポルトガル・スペインはともに国家政策の中で砂糖を重視し、生産地の拡大と砂糖プランテーション経営の改善をはかりながら、積極的に「労働奴隷制」の導入を進めた。砂糖を売買するために大西洋諸島に足を運んでいたコロンブスは、「新世界」へむかう第2回航海で、カナリア諸島から砂糖キビを「新世界」スペイン領サント=ドミンゴにもちこんだ。「新世界」で、このように「白い商品」砂糖が誕生した。1501年スペイン国王はこの「新世界」での労働力不足を補うために奴隷輸入について勅令「奴隷貿易権(アシエント)」を発布した。このときはアフリカ人が直接の対象となっていたわけではないが、1510年にまで50名、次に200名の 「黒い商品」アフリカ人奴隷を輸送する勅許状を与えられ、西インド諸島に送り込まれた。
これ以来、王室はこの貿易の税収入に味を占めることになり、1518年にはアフリカより直接西インド諸島にむけて4000名の奴隷を輸出する許可を与えた。勅許による収入は王室経済に不可欠になり、勅許状が証券のごとく金融市場で取引きされるようになった。そして1592年のように4万人近くの奴隷輸出の勅許状が、一度に与えられるようになると、各国の商人は蜜貿易という形で奴隷売買に乗り出してくる。
■3. アフリカの家内奴隷制
第2時間目はアフリカ社会と奴隷売買のかかわり、さらに奴隷貿易が大規模に展開していった条件をみながら、アフリカへの奴隷貿易の影響をとりあげる。
さて西アフリカ社会では、奴隷制が存在したのであろうか。18世紀アシャンテイ王国には5種類の奴隷がいたといい、ダオメ王国ではすべての住民は王に対して奴隷であったとの記録がある。しかし「人間そのものが商品」としての奴隷の概念に、それらが当てはまっているかどうか疑わしい。11〜16世紀のサハラ縦断貿易はアラブ人の記録からもイスラム世界向けの「家内奴隷」売買が確認される。
ところで、16世紀のギニア湾沿岸のとくに上ギニア地方には奴隷制はなかった。しかし、下ギニア地方のサハラ縦断貿易で繁栄した王国などでは奴隷制が確立し、現地の首長が農園や金鉱山で労働奴隷や家内奴隷、あるいは交易の運搬人として使役していたという。16世紀のポルトガルは中部アフリカで買い入れた奴隷をこの地域の首長らに売って、かわりに「黄金」などを手にいれた。これらの奴隷の多くがたとえ戦争捕虜であっても、臨時的な身分としての家内奴隷として、一時的に共同体の一員に加えられた。そして衣食住はもちろん、さらには信任が得られれば自由民になれたという。つまり西アフリカ社会には一部奴隷制は存在したが、その奴隷は一般的に商品としての価値をもった奴隷ではなかった。
■4. 奴隷貿易のはじまり
【T】ポルトガル人たちがギニア海岸に到着した時期の西アフリカ社会の状況は。
【S】地図をみるとガーナ・マリ・ソンガイと続く王国が衰え、小さな国々に分裂しています。
【T】数多くの共同体や都市国家レベルで政治的社会的混乱を生み出していた。そんな中に入り込んできたヨーロッパ人たちはどんな商売をするだろうか。
【S】武器の販売。
【T】そうマスケット銃と弾薬を売ったことは、さらに社会の混乱に拍車をかけた。西アフリカの首長たちは先を争って武器を求めたが、何と交換したのかな。
【S】アフリカ人の奴隷でしょう。
【T】ヨーロッパ人たちは首長たちに奴隷を自分のところにおいて働かせるのがいいのか、奴隷を商品として武器と交換するほうが有利かの選択を迫った。その結果、首長たちは当然後者の立場をとった。
この奴隷貿易は、アフリカにどんな影響を与えることになったか。まず大量の労働力流失が、農業に対して大きな打撃を与えた。それも働き盛りの若い男女(15〜35才)の労働力であっただけに農作業は停滞し、ところによっては飢饉に苦しめられた。またツエツエ蝿のいる地域での人口減少は、多くの農民たちの離脱をうながした。このような農業の衰退はいっそう社会不安を高め、とくに飢饉がおきれば食糧を得るために、途方もない安値で多数の奴隷を売りに出した。
■5. 「奴隷の舞踏」
第3時間目の授業は、奴隷たちの主な闘いの舞台であった大西洋三角貿易における「中間航路」の様子と、生きのびてたどり着いた「新世界」の砂糖プランテーションでの奴隷生活をみる。ここではとくに悲惨で絶望的ではあっても、アフリカ人たちが明日の自
分の人生に何を託そうとしていたかを念頭におきたい。
【T】17世紀初めのイギリス人の年間収入は18ポンドほど。このころプランターに 奴隷1人13、4ポンドで売れた。では200トンの奴隷船に何人積み込んだかな。
【S】教科書の積載図をみると多くて2、300人くらい。
【T】だがなんと1トン当たりの空間は高さ80cm、奥行き180cm、幅40cm余りしかなかった。そんな中で男は裸で鎖をかけられたうえ、2人ずつ繋がれていた。食事は1日2回豆や米、芋のごった煮、ときにはわずかばかりの干し肉・魚であった。こんな状態で数十日の航海に奴隷たちはもつかな。
【S】船酔いや運動不足で体がボロボロ。いや発狂してしまうよ。
【T】そうだね。奴隷たちの致命的な病気に「固定性憂鬱症」と呼ばれるものがあった。ひどい場合は、手で膝を抱き膝小僧のうえに顎をのせたままふさぎこみ、一種のショック状態におちいって朝になると死んでしまう。毎朝3、4体あったという。この病気になると拒食症になるときがあるので「スペキュルム・オルス」と呼ばれる口開け器で無理にこじあけ、漏斗で食物を流し込んだ。
【T】そんなことで朝食のあとに、「奴隷の舞踏」という儀式をはじめたのだが、いったい何のためだろう。
【S】陽気にさせるため。
【T】商品として使い物にならないと売れないからね。だから運動のためにダンスを無理やりさせた。伴奏もドラムやバンジョーなどで奴隷たちに演奏させた。
今日アフリカ音楽は、ドラムとそのリズムで表現される音楽で代表されている。それは当時西アフリカ社会で隆盛をきわめた伝統的な音楽文化に根ざすもので、60種類以上のドラムをはじめ、多種多様な弦楽器(バンジョー・ギター)管楽器(フルート)木琴(マリンバ)などが一体となって伝統音楽をつくっていた。
この音楽は宗教的行為としての意味ももち様々な儀式とつながり、アフリカ人たちの生活にとけ込んでいた。また農耕や集団労働では即興でワークソングが皆で歌われ、ときにはそこに職業音楽家の小バンドがついたという。この歌唱の伝統が、後に「新世界」での「ブルース」などに受け継がれていった。
【T】船長が奴隷たちに歌えと命じたとき、彼らはどんな歌を歌ったであろうか。
【S】故郷を想う歌。これではダンスにならないかもね。
【T】甲板での歌は自分の気晴らしのためだけではなかった。奴隷となったくやしさを皆でまぎらわし、ヨーロッパ人が人を食べるため買っているとの噂への恐怖をやわらげるためであった。あるいは飢えや病気の苦しみを訴えたり、そして何よりも皆を励ますために歌ったという。ドラムが通信手段として言葉 や習慣の違うアフリカ人たちを結びつけ、音楽で気持ちがひとつになったとき、どんな行動にでるのかな。たとえばまだ海岸線が見えているときは。
【S】自由になって故郷に帰りたいので、反乱や抵抗運動をおこす。船を乗っ取る。
【T】そんなときは船がまだ投錨している場合が多く、成功したのが10回の反乱にひとつぐらいあった。フランスの記録ではナントの奴隷船の15隻に1隻が反乱をおこしたという。奴隷にされるよりは自由か死を選んだアフリカ人は自殺もひとつの抵抗であり、死ねば自分の国へ帰れるものと想っていた。
■6. 「中間航路」から「新世界」へ
アフリカから「新世界」への航路は「中間航路」と呼ばれ、早くて3週間、普通2、3カ月間、長いときは9カ月間の大西洋横断の航路であった。断片的な資料から推定される数字では全体で約1000万人以上、つまり15世紀末から17世紀末まで約200万人、18世紀に約700万人、19世紀に約200万人が生きのびて「新世界」に渡ったという。ただ忘れてならないのは「中間航路」の海に消えていったアフリカ人たちは平均積み込んだ数の8〜34%におよんでいると推定されている。
【T】ところで奴隷船のヨーロッパ人船員たちだけど、大西洋をぐるりと回る長い長い航路ですね。最盛期の18世紀、年平均6万人以上運んだ奴隷船は危険を冒しても高い利潤があったが、船員たちはそんなに儲かったのかな。
【S】反乱はあるし、病気にかかる危険も高い。生きて帰らないともともこもない。
【T】実は船員の死亡率は奴隷より高かった。平均死亡率20%以上、出航時の半分以下しか帰国できないことがざらにあった。船員の多くは社会の下層の出身で、中には脱獄者や逮捕を逃れている犯罪者もいた。だから船長は航海の利潤をあげるために荒っぽく苛酷に船員をこき使った。船員が格子窓をとうして奴隷から食べ物を恵んでもらったという話もある。さらに奴隷を「新世界」に陸揚げすれば、余った船員は必要ないので虐待して逃亡させたり、予告なしに出航して置き去りにすることで船員に払う金を懐にいれた。これではアフリカ人奴隷とヨーロッパ人船員のいじめられた者同士、連帯したかもしれないね。
さて、生きのびて「新世界」に渡ったアフリカ人奴隷たちは砂糖プランテーションでどう過ごしたのか。1872年の統計で平均余命は18年、18世紀初めの若い奴隷で生存期間は12年以内。労働条件がきついうえに粗食と不衛生で、到着して1年目の死亡率は8%、2年目で6%と平均死亡率の2倍にのぼり、奴隷人口の減少をまねいていた。このことはアフリカに対する奴隷需要を継続させることになる。砂糖プランテーションは当初インディオの奴隷労働力に求められていたが、過度の酷使と農業への不適応などが重なり、インディオは激減した。
その代替労働力として、ひとりのアフリカ人奴隷は4人のインディオ奴隷に匹敵したともいわれている。つまり、アフリカ人奴隷は農耕民として優れていたうえに、軍隊的規律のもとで集団的な労働にも耐える忍耐力があった。プランテーションの生産過程でも、とくに砂糖キビ栽培は大規模な単純協業であり、1年を通じて比較的型にはまった手順を踏んでいた。鉄製の手鍬を使っておこなう溝堀法と呼ばれる栽培方法は奴隷たちに1日10時間かけて6、70個の穴を掘らせる重労働をともなっていた。さらに植え付け後には除草や間引き、土起こし、植え替えなどの作業が繰り返された。そして収穫の5、6カ月間はプランテーションの死活をかけた期間になる。つまり、砂糖キビを刈り取ると、すぐに比較的熟練した労働による搾汁から製糖の工程作業に入るが、きわめて組織的で厳しい奴隷労働であった。この熟練した作業がともなう労働にもアフリカ人たちは耐えた。
ところで、日常の奴隷たちの生活はどうであったか。たとえばカリブ海のジャマイカでは、奴隷に菜園を与え、ヤムイモやキャッサバ、バナナをつくらせ家畜を飼育させた。また、土曜の午後と日曜日には奴隷に休みを与え、祝祭日にはフェステバルやレクリエーションも認めた。これは日頃の生活の退屈さや抑圧へのはけぐちになったが、そこでの、アフリカ文化は、彼らの想いをのせながらも「新世界」に新たに継承されていった。娯楽の中心であったドラムとそのアフリカ的リズムによる音楽やダンスも、純粋にアフリカ的ではないジャマイカ的な表現になっていった。現代のジャマイカ音楽「レゲエ」は、遠くない過去へのアフリカ人奴隷たちの日常の想いを伝えているのである。
■まとめ
16世紀以来、世界の一体化の中で、資本主義体制は一方に富を蓄積することで、もう一方には貧困を蓄積する世界システムをつくりあげた。この構造は今日も依然として変わっていない。ヨーロッパ「近代」が追い続けてきた富の蓄積は、現代資本主義国によってさらに押し進められている。その出発点としての奴隷貿易から学ぶことは多い。