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清国船「元順号」遭難救助の日中友好碑

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太平洋の波が打ち寄せる千葉県南房総市千倉町の南千倉海岸には、『清国船元順遭難救助記念碑』が建っている。1779年(安永8)年11月11日、当時唐船と呼ばれる清国の貿易船「元順号」が長崎に向かっていた。だが、大嵐に遭って5ヶ月間も漂流した後、翌1780(安永9)年4月29日に南千倉沖合、通称「川戸山」暗礁に漂着し座礁したのであった。

千倉の漁民は暴風雨の中、乗組員78名全員を救助し、当地を治めていた岩槻藩(朝夷郡21ヶ村)の指示により、2ヶ月間にわたって遭難者を手厚く世話をして、全員を故郷に帰還させたといわれる。1980(昭和55)年7月、日中友好のシンボルとして、南房総市千倉町の南千倉海岸に『清国船元順遭難救助記念碑』が建立された。

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1780年4月30日、房総半島南東端の南千倉海岸に唐船が漂着した日は暴風雨で、近隣の漁師たちは身の危険も顧みず最初23名を救助したものの、そのうちに夜となり危機にさらされ残った船と乗組員たちには手の施しようがなかった。そして、夜が明けても暴風雨は一段と激しかったが、漁師たちは荒海の中で命綱をもって残り55名全員を救助したのであった。

こうして近くの村人たちが海岸に急造の収容所を建てて米・薪や野菜を差し入れ、乗組員78人、約2ヶ月救護したのであった。その後江戸幕府の命令で全員無事長崎まで送還し、乗組員は本国に帰ったといわれる。この出来事は、役所の禁令にもかかわらず、唐人を一目見ようと、近くから見物人たちがどっと集まってくる。うわさを聞きつけ、唐人たちと筆談をするために、わざわざ江戸から駆けつけた儒者もいたという。江戸時代には難破船といえども、幕府の特別許可がないと上陸できないし、長崎でも外国の船乗りたちは蘭館や唐人屋敷に閉じこめられ、簡単には外出できなかった。日本側の関係者も唐人たちと会えるのはごく限られていた。しかし、このような海難事故は、日本と中国の民間交流のきっかけとなったのであった。

ところで、清国船「元順号」副船頭として乗船していたのが方西園という画家であった。彼は富士山を見る幸運に恵まれ、その美しさと雄大な姿を絵に描いた。当時、富士山を近くから眺めて描いたものはないといわれ、中国人によるきわめて貴重な富士山の絵となった。

中国から日本に舶載してきたものには、繊維製品がもっとも多いが、次に砂糖、漢方薬などであった。書物の方は量の上ではごく限られていた。

一方、日本からの主要な輸出品は銅と俵物で、後者はおもに煎(いり)ナマコ、干しアワビ、フカヒレの三品である。1684(貞享元)年以降、貿易の拡大により、寧波あたりで俵物が供給過剰になり、一般人もフカヒレが食べられるようになった。中国側の資料を読むと、フカヒレに関する記録はたしかにそのあたりから目立つようになっている。唐船貿易は中国の食文化にも波紋をおよぼしていた。

当時の唐船をみると1836(天保7)年に薩摩の片浦に漂着した船は全長43m、幅12.7mもあり、また、大きい船の積載量は約1200トン(200万斤)にも達したという。

09年2月16日 30,167

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