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●「ステータス・シンボル」から「日用品」になった砂糖●

*執筆=愛沢伸雄

*『世界史のなかの物』地歴社(1999年)


一般に砂糖の原料は、サトウキビ(甘蔗)とサトウダイコン(甜菜)に分けられる。サトウキビが作物として栽培化されてきた歴史は古いが、このサトウキビからつくられた甘蔗糖こそ、16世紀に始まる世界の一体化の動きの中で、最も重要な交易品となり、ヨーロッパでも、とりわけイギリスを中心とした「近代世界システム」における世界商品のひとつとなっていった。


■薬品・香料から甘味料になった砂糖

サトウキビはバナナやヤムイモとともに、東南アジアの根栽農耕文化での代表的栽培植物である。紀元前2千年頃インドに伝播して後、作物としてのサトウキビから砂糖を抽出していたと思われるが、前4世紀のアルクサンドロスのインド遠征において「インドでは蜂の助けを借りず葦の茎から蜜をつくっている」との記録が残っている。当時は「石蜜」とよばれる鉱物として扱われ、熱冷まし、整腸剤、精力増進などの薬として使用されていたという。また、中国の「後漢書」のなかには、天竺に「石蜜」があることを紹介し、日本では8世紀に渡来した鑑真の献上品リストに砂糖らしきものがあったといわれる。

ところで、イスラム商人は交易品として砂糖を携えていっただけでなく、砂糖生産にも取り組み、サトウキビ栽培の適地を求めていった。8世紀には、地中海のクレタ・マルタ・シチリアなどの島々や沿岸を経由して、西アフリカやスペインに栽培や製糖技術が広がり、この頃にすでに砂糖生産と奴隷制度が結びついていたという。そして遅くとも12世紀ごろに砂糖は、胡椒・ナツメグなどとともにアジア産の香料として紹介されたり、またイスラム医学では万能薬として使用されていたので、16世紀になってもヨーロッパでは、結核やコレラの解熱剤として高価に取引されていた。

砂糖は大きく5つの役割を果たしてきた。古来より薬品や香料として、また食卓を飾る砂糖菓子として、そして何よりも17世紀半ば以降は、ヨーロッパにおいて、甘味料や保存料として重要な役割を果たすことになる。嗜好品であるカカオ・コーヒー・紅茶との出会いをきっかけに砂糖は、甘味料として極めて貴重な存在になっていく。コーヒーに砂糖を入れて飲む習慣は、トルコ人が始めたといわれるが、「砂糖入り紅茶」を飲みはじめたのは、イギリス人であった。

19世紀に入り、砂糖を甘味料とする食習慣が急速にヨーロッパに広まり、カカオ・コーヒー・紅茶の消費量がそれぞれ10倍になれば、砂糖の消費量はおよそ30倍に跳ね上がるという状況になった。この爆発的な需要が、カリブ海域において「砂糖革命」と呼ばれる生産の飛躍的な拡大をもたらし、砂糖は世界経済や貿易構造を規定していく世界商品になっていったのである。

砂糖が世界化した商品になっていく過程は、アフリカ人奴隷貿易の拡大と奴隷制による砂糖プランテーションの拡大の軌跡でもあるが、同時に誰もが手に入れることができる「日用品」としての砂糖になる過程でもあった。


■「砂糖入り紅茶」誕生の謎

17世紀半ば以降、東インド会社を中心としてヨーロッパとアジア間での貿易や、ヨーロッパとアメリカ、アフリカ間の三角貿易が著しく拡大し、イギリスはいわゆる「商業革命」と呼ばれる大好況の時代を迎えていた。また、17世紀「近代世界システム」の覇権を握っていたオランダから軍事資金を導入したイギリス政府は、フランスとの植民地争奪戦にことごとく勝利し、19世紀には自由競争と自由貿易をスローガンに「パクス・ブリタニカ」を実現し、世界経済の覇権を握り世界の商品を安価に手に入れていった。

ところで、お茶に砂糖を入れるという思いつきは、なぜイギリス人から生まれたのであろうか。大航海時代以降、アジア物産を消費する生活は一種の「ステイタス・シンボル」の役割を果たしていた。財力のある貿易商人たちがぜいたくな生活をすればするほど、特権階級であった貴族やジェントリたちには、それ以上のものでなければ、体面が保てないというスノビズム(上流者気取り)的な性格を露わにした。

18世紀までイギリスではコーヒーハウスやティーハウス以外で日常的に紅茶やコーヒーに砂糖を入れて飲む習慣はなかった。ところが、ポルトガルから嫁いできたチャールズ2世の王妃キャサリンは、大のお茶好きで、宮廷で茶を飲む習慣を流行させた。それまで宮廷では、エールやワイン、スピリッツなどのアルコール飲料を飲んでいたが、そこに茶などの非アルコール飲料が加わった。当時、アルコール飲料に甘味料を入れる習慣があったことから、お茶にも砂糖を入れるようになったといわれる。

東インド会社の茶の輸入をみると、当初は緑茶が多いので、緑茶に砂糖を入れていたのである。その後、紅茶の割合が増加し、18世紀半ば頃には、紅茶が逆転し3分の2を占めるようになった。紅茶も砂糖も奢侈品であった限りでは、紅茶に砂糖を入れることは「ステイタス・シンボル」を2つ重ねることであり、権威と富を誇示できる絶好のスノビズムになったと考えられる。


■「砂糖革命」から「生活革命」へ

大西洋での三角貿易に象徴される奴隷と砂糖の貿易に、まずオランダが、続いてイギリスとフランスが競争しながら参入していったので、カリブ海域での砂糖プランテーションは急速に開発されていった。1575年から1650年にかけて、ブラジルは膨大なアフリカ人奴隷の輸入をおこなって、全ヨーロッパの砂糖需要をまかなった。その後、17世紀前半にカリブ海域のイギリス領植民地を中心にいわゆる「砂糖革命」が進行していった。

統計によると、イギリス国民一人あたりの砂糖消費量が、1710年から70年頃までに約3.5倍と急速に伸びたことで、その間のカリブ海域のイギリス領砂糖プランテーションからの粗糖輸出量も大幅に増加した。その結果、ヨーロッパとアメリカ、アフリカ間の三角貿易のなかで、カリブ海域の砂糖プランターたちの購買力は高まり、アフリカ人奴隷の輸入が増加するとともに、イギリス商品の輸入が激増し、イギリスの国内産業は大いに活性化していった。と同時に、商品の輸出先や貿易量も、従来のヨーロッパ諸国からアフリカや南北アメリカ地域に大きくシフトしていくことになる。

「砂糖革命」のなかで、カリブ海域は少数の白人プランターによりサトウキビのモノカルチャー地帯とされ、そこには膨大な数のアフリカ人奴隷が労働力として効率的な砂糖生産の犠牲になっていた。砂糖は極めてもうかる商品ということで、イギリス資本だけでなくヨーロッパ資本が次々にプランティーションに投資され、多くの「砂糖王」を生み出していったが、それは今日に続くカリブ海域の「低開発化」の根源となっていったことを忘れてはならない。

ところで、17世紀半ばから「商業革命」の進行によって、イギリス人の生活に茶や砂糖などの商品が大量に供給される状況が生まれたが、とくに19世紀からの工業化と都市化のなかで、消費生活上の「生活革命」が起こった。なかでも「ティー・コンプレックス」(茶にまつわる様々なもの)と呼ばれる茶と砂糖をワンセットにした食品群が登場し、都市労働者の日常生活に大きな影響を与えることとなった。

当時、労働者は長時間労働のなかで、食事の準備や食事そのものに時間をかけることは不可能であった。パンは店頭で買い、ジャムや糖蜜をつけて、安価になった「日用品」の砂糖を入れた紅茶で冷たいパンを流し込む朝食は、低賃金長時間労働にあえぐ労働者たちのエネルギー源となった。一瞬にして温かい食事に変える「砂糖入り紅茶」は労働意欲を高め、週末には飲んだくれて2日酔いの月曜日は仕事をしない、という伝統的な職人たちの生活習慣の打破に大きな役割を果たし、急速な工業化の進展に貢献したのであった。


【参考文献】

シドニー・W・ミンツ 「甘さと権力」 平凡社 1988年

川北 稔 「砂糖の世界史」岩波ジュニア新書 1996年

09年3月12日 10,065

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